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詩を読むとは自らの内面を見つめること

けっこう前の『週刊現代』(2016年7月23・30日号)に書かれていた記事です。

 

その週の「わが人生最高の10冊」というコーナーは作家の下重暁子さんが今週の選者でした。

 

ページの見出しが「詩を読むとは自らの内面を見つめること」で、とても興味深かったので中身を読んでみることにしました。

 

彼女は萩原朔太郎をよく読むそうで、そのことについてこのように述べています。

朔太郎の作品には〈好き〉という言葉は合いません。どうしようもなく〈惹かれる〉んです。ではなぜ惹かれるのだろうと考えることはすなわち、自分を知ることです。それを私は自分を〈掘る〉と言いますが、自分を掘っていくと、底に嫌な自分を見つけたり、思いがけない本質に出会ったりする。そうやって自らの内面に降りていくことを教えてくれたのが朔太郎でした。

 

萩原朔太郎を読むことで、

 

自分の内面を見つめるばかりではなく深掘りすることまでできる

 

のだそうです。

 

これは「なるほど!」と思いました。

 

なぜ詩を読むのか?

 

今まで数多くの詩と出会い、共感し、感動したりしてきました。「この詩、すげえいいなぁ」などと何度思ったことか!

 

振り返ってみると、そのさまざまな詩を読んでいくことが、実は、自分の内面と向き合う行為でもあったわけです。

 

かつて、このブログで中原中也の詩を紹介したことがあります。

www.motoshidaa.com

 

このときは中原中也「北の海」を紹介しました。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり

 

この詩は、とてつもない寂しさと孤独を感じさせる詩なのですが、実は私自身もすごく孤独を感じた時期がありました。

 

若いころ、もともと愛想がよかった私ですが、それは外面ばかりで、だれとも打ち解けることができませんでした。

 

誰も信用できなかったし、誰にも悩みなど相談することもありませんでした。友だちなんてつくったところでどうせ上辺だけだと思っていたし。

 

そんなすさんだ気持ちのときにこの詩をよく読んでいたのです。

 

「海」を人間社会にたとえると、「人魚」はやさしさとか希望とかあたたかさだと思います。

 

しかし、実際にはそこに「人魚」はいなくて、あるのは「浪」ばかりです。やさしさとか希望とかあたたかさなど、人間社会にはないのです。

 

若い時の私は、この詩を読んで、このように解釈していました。中原中也の「北の海」を自分の孤独に照らしあわせていました。

 

 

詩を読むとあらためて、自分の内面がよくわかるものなんだなぁと思います。まさに下重暁子さんの言うとおりです。

 

下重さんはさらにこのように言っています。

いまは外側ばかりに芽が向けられる時代だと思います。外から知識を得るために読書をする人も多い。けれど、私は逆。自分の内側を知りたいから本を読むし、自分の内面にしか興味がない。

 

本を読むのが、ただ単に知識を得るためだったらもったいない。ましてや娯楽のためだけだったら、なお、もったいない。本を読んで、もっと自分の内面のことを知ることも必要です。

 

そのために詩を読むのも選択肢のひとつなのです。

 

 

☆☆☆

 

最後に萩原朔太郎の詩をひとつ

 

地面の底の病気の顔

 

地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

 

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

 

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。

 

なかなか難しい詩ですね。今度じっくり読んで、自分の内面を深堀りしてみようと思います。